震災障害者と家族の声 その3

◇ 福祉の谷間にある「高次脳機能障害」

神戸市長様
前略、失礼致します。私はY子の母、M子と申します。私事の想いを書き綴ることをお許し下さい。私は5歳の頃より若年性の関節リュウマチになり、半世紀、この病気と共に生きてきました。そんな私も人並みに結婚し、3人の元気な子どもに恵まれました。子ども達さえ元気に育ってくれたら、それが一番と思って暮らしていました。
そして、あの日…。また心がざわめき落ち着かぬこの時期…15年目を迎えます。Y子は当時中学3年生、春からの高校生活に夢と希望がいっぱい、瞳をキラキラ輝かせていました。
でも、ピアノの下敷きとなり、やっと辿り着いた病院で、12時間の命と宣告されました。さまざまな思いの渦巻く中、奇跡的に生還したY子は、元の元気なY子ではありませんでした。震災が奪ったものは「命」そして次にくるのは「元気な体」です。娘、Y子の夢いっぱいの人生も家族の人生も180度変わり、今へと続いているのです。
天変地異、国が県が市が助けてくれると思っていました。信じていました。でも、この15年、エールを送ってもらえませんでした。1・17宣告でも触れてもらえませんでした。
「元に戻らぬ体のこと」。思いもよらぬ大都市に起きた大地震、混乱は当たり前だと思います。行政の方々の大変さも理解できます。でも、市長さん、この一言はほしかったのです。
「ケガをした人達も頑張って早く良くなって下さい。元気になって下さい」と。
そして「ケガをした人達」に向けて明確に示された、訪ねて行ける「相談窓口」もありませんでした。
Y子は6年後、名古屋のリハビリテーション病院で、なんの支援制度もない福祉の谷間に落ちていると言われる「高次脳機能障害」という一生背負ってゆかねばならない障害を受けたのだとわかりました。Y子は行政からも気付かれず受けた障害も支援がないダブルの辛さを味わってきたのです。「死ぬこと」は一生懸命に考えることが出来ました。でも「生きて行く、この娘と…」となると何も考えることが出来ませんでした。本当に辛い苦しい日々が続きました。
今、私達がここに居れるのは、その時どきに出会えた方々の支えがあったからです。
Y子のこれからについて、まったくゼロからの出発でした。現在もこれからの生活に不安はいっぱいで、心休まることはありません。
すっかり人が変わったY子ではありますが、心の奥深く「優しさ」「明るさ」は失わずにいてくれました。人生のうちのたぶん一番楽しく輝けるであろう10代、20代を試行錯誤の中で親子共々、悩み、泣き、笑いながら生きてきました。
こんなY子の経験を、こんな大変な経験なのに、これからの教訓として伝えてもらえないのでしょうか。
全世界、全国の人達が震災を学びに来る「人と防災未来センター」にも残してもらえないのでしょうか。どんな形でも考えながら是非貴重な教訓として残してください。お願いします。
「震災障害者」その響きはやっぱり悲しく、苦しく、辛いけれど頑張って仲間の皆さんと共に乗り切って生きて行きたいです。もう私達のような思いをすることがないように、よろしくお願いいたします。体の傷と心の傷を支えて下さい。
ハード面での復興は目に見えて立派に出来上がってきますが、人も元気になってゆかねば、真の復興とは言えません。
Y子は、旧神戸中央市民病院(現、新神戸)で小雪のちらつく中、昭和55年2月8日に生まれました。神戸で生まれた「神戸ッ子」だと、神戸が大好きで2000年に20歳になること楽しみにしていました。神戸の百貨店に勤めるのだと、神戸商業を受験することになっていました。
海と山とに囲まれた、このおしゃれな街が好きだと今も言います。
そんな神戸を愛するY子のことを、どうぞ忘れずにいてやって下さい。自分勝手な気持ちのままに書きました。
乱筆乱文お許し下さい。 15年を筆に乗せて 母
平成22年1月17日
追伸
勝手ながら、3年目、やるせない思いを一気にかいた手記と10年目、Tさんに背中を押して頂いて書いた手記、そしてまだ仮設で暮らしていた時のことを載せて頂いた本のコピーをお届けしたいと思います。お手紙と重なりますが、私の変わらぬ思いを受け止めて読んで頂けるとうれしいです。
震災障害者となって15年…、元気で暮らした15年を越えてこれからは時を重ねて生きてゆくY子です。

阪神大震災ボランティア(復興住宅訪問/震災障害者)